前提条件が間違っているという感覚が最近すごい。
昨日の記事は静かに誰かの一助になっていればいいのかなと思います。
普段から人一倍めちゃくちゃ頭の中でいろんな考えをこねくり回しているタイプであるが、例えば、今考えている理屈が95パー正しいとしても、その土台というか、前提条件が間違っているのではないのか、としばしば考える。
わかりやすく例えるならば、経済のミクロとマクロに近いのかも。僕がエコにエコに暮らしているのが望ましいとして、それを全世界のみんながやっちゃうと世界が回らないよね
みたいな。
だから、理論や、歴史や法則や感情では説明のつかないような、どうしようもないと思わざるをえない鬱な状態に陥っている。
もっと身近に例えるならば、みんな幸せになりたいのだ。誰一人不幸になりたい人などいない。と聞くとする。一見正しそうだが、
見えない前提条件として、人生では幸せを求めなければならないというそれが隠れていることに気づくことができるはずだ。
さらにいえば、人生に意味があるかのような前提もはらんでいる。
本当にそうなのか? 意味を誰かからお前は聞いたのか?いや、自分で決めただけだ。
じゃあ、”意味付け” しただけに過ぎない。
ゆえに、恣意的であるのは疑いようがない。
いや、人生に意味があるとして、その目的に固執するのが ”良いこと” なのか、これも疑わしい。もう、美学とか流儀の問題なのであるが、毎日イチローは彼を食べているだとか、ジョブズは毎日同じ洋服を見に纏うんだ。
だとか、そういうシステマティックなモード?スタイル?に、はたまた囚われてしまうのも、果たして良いことなのだろうかと考える。
だから、僕は ”すべし。”調 が嫌いなんだ。
ビジネス書なんかにある一流がやっているマルマルの習慣だとかが疑わしいということだ。それを法則にしてしまうと、それより
下位の変数が、前提として審査なしに決定づけられてしまう。
(拙いけど、伝わってくれたら嬉しい)
こういう突き詰めが僕の今陥っている深い深い鬱なのである。考えれば考えるほど、泥沼な気がする。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。うわぁ、今日も重たい記事になっちゃった笑
イチローの例はふさわしくないだろ、って思われる方いるかと思いますが、便宜上使わせて頂きました。
http://oimosh-riku.hatenablog.com/entry/2017/08/24/233836
http://oimosh-riku.hatenablog.com/entry/2017/08/28/210217
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